
告知に埋もれて動けない
イベントの通知ばかりが来る。
私はイベントを運営した経験はないけれど、身近にそういったものを主催する知人が何人かいらっしゃるので、その度に様子を伺っているのだが、常々思うことがある。
告知の量はものすごいのに、イベントの最中や、終わった後の情報が、少ない。どんな雰囲気だったのか。良かったのか。盛り上がったのか。運営含め、参加した人間は満足したのか。
ポジティブな評価を発見することができたら、現場の空気や人が自分好みだったら、次は行ってみようかな、と興味がわくのだが、公式な情報は「いよいよ始まりました!」などで更新が停止しており、想像は困難だ。その先を教えて欲しいのだが。もやもやもやもや。気になる。
実況でも、レポートでも、反省でも、得られたものでも気付いたことでも、後悔でも独白でもポエムでも何でもよい。どうだったのか知りたい。
イベントは成功したのか。失敗ってあるのか。そもそも、イベントはどうなったら成功なんだ。もし、失敗のイベントに参加した我々の気持ちは、どこへ葬られるのか、成仏できるのか。そして勢いにまかせて言わせていただくなら、いつの間にやら市民権を得ていた「ワークショップ」って何なんだ、目的は? みんな本質を理解して参加しているのか。
……そうもどかしく思い、もじもじしていると、気がつけば、別の告知が始まっていたりする。
次回の告知。来月の告知。友だちの告知。
ああ、また告知だ。と思う。
私は、ぶくぶくと口から泡を吹きながら、告知の濁流の底へと沈んでゆく。
見つめ直す必要性
想像してみる。
運営側は当日、イベントを正しく進行させることに頭がいっぱいで、実況どころではない。 何とか今日を乗り切れば。と周りを見る余裕がないほど、集中しているのだ。それは、想像というか。極めて当然の話ではある。社会へ出たら「まず、タスクの優先順位を決めましょう」と習うし、運営や進行が「最優先」なのは想像に難くない。
SNSなどでシェアされる情報もあるにはあるけれど、多くは「合間になんとか、シェアしてます」感が滲んでいて、真価が出ておらず残念な感じだ。実際はもっと素敵なのに。勿体ない。
もちろんきちんと実践されている方もいるが、まだまだ少ないと感じる。
私の観察によると、フライヤーをある程度の労力をかけてつくることは、慣例になっているようにみえる。ふむ。いったい、デザイン料や印刷代は、通常どのくらいの費用がかかるのだろう。それはわからないが、その必要性や価値の判断は真っ当だろうか。時代にあってる?「実況」や「記録」と比較して、どうだろう。
「告知」は、イベントが過ぎればほぼ役目を終えるが、「実況」や「記録」の価値は残る。参加者の満足度を高める可能性だって秘めている。
我々は無限ではない
告知を否定しているわけではない、必要なことは理解できる。ただ、告知される側、される場所のことを想像しているのか、とは思う。
告知≒広告なわけだが、退屈なCMしかやってないテレビを誰が観るのか。中身がほとんど広告の雑誌を喜んで買う人間はいない。バナーや広告の表示に、時間や意識を奪われるウェブサイトに辟易しているのは自分たちなのでは。
インターネットは今や無限といってもよい。だが、受け取る側、我々の「時間」や「意識」は有限である。
広告は注目されなくて当然という認識があるからこそ、クリエイティブディレクター / 広告クリエイターという職種が成立する。それは簡単なことではないから、対価が生まれ仕事になる。日々彼らは様々な種類のオモシロを追究し、そのアイデアと熱量でもって世の中に情報を伝えている。限られたスペースや時間の中、知恵を絞り、少しでも共感や好感を持てる広告を生み出している。
それがいま、告知と銘打って、個人が何でも言いたい放題である。効果があろうがなかろうが「何度発言しても無料だし〜」くらいの開き直りでもって、何の工夫もないありきたりな告知を溢れさせている。
「何の工夫もない告知」というのは、たとえば「清き一票を〜」と喚いている選挙の宣伝カーのようなもだ。あれは法律などの理由があってああなってしまったのだが、その理由はさておき、果たしてあれを好きな人間がいるだろうか。
「買ってね!」「おいしいよ!」「どこよりもうちは安い!」としか言わないCM。そんなのばかりが流れるテレビを想像して欲しい。考えただけで、風邪をひきそうである。
そのような「工夫のない告知」の無差別大量生産によって、インターネットはいま、しゃびしゃびに薄まっている、と思う。氷が全部とけたカルピスのように。ほぼ水道水。ぜんぜん美味しくない。その自覚はあるだろうか。
検索結果と環境破壊
ググれ、という言葉が生まれて久しいが、まさか検索結果がすべて、オリジナルで、真実で、有用だ、なんて思ってないだろう。
いまや、リストアップされた結果の大半は、「おれのサイトにいますぐアクセス」と言ってるだけ。後ろが透けて見えるほど内容がペラペラで、とにかくページビューを稼ぎたい、広告を表示したい、それだけの無意味なゴミ記事だ。機械的にコピペして結合しただけの、自動生成コンテンツも後を絶たない。はっきり言って邪魔である。
その惨状を表示するスクリーンと日々対面しながら、私は嘆き、そして憂いているのだ。わかるか。このまま薄まり続けたインターネットは、やがて決定的に「つまらない」の烙印を押されてしまうだろう。
人間がいなければ、地球は美しいままだった。地球を主役にしたら、人間は害でしかない。しかし、それに気付いた我々が、このままでは地球が滅びるんじゃないか、と、国境を越えて手を繋ぎ、意識を向けたことによって、現在はオゾン層だって回復しつつある。なぜなら、それに気付いたから。
それと同じで、インターネットも、皆で意識しないと、このままではやばくないか。
某SNSのように「つまらない」ものはやがて使われなくなるのだ。参加者のいないサービスほど悲しいものはない。私は、インターネットが寂れてしまうのは、嫌だ。
涙はいいねの数だけ
良かれ悪かれコピーされる時代である。
「コピーできないことに価値が生まれる」 私はウェブデザイナとして独立してからは常にそれを念頭に置き、意識して働いてきた。だが、いよいよである。今や、言葉も画像もデザインもアイデアも、意見や生き方だって、平気でコピーされる。
性善説を信じている部分も確かにあって、どこかで歯止めがかかるのでは、と楽観もしていたけれど、残念ながら期待したような状況ではまるでない。
コピーとは単に「私のデザインを盗んだ」のように「不正に複製する行為」のことだけを指しているのではない。危惧しているのは、その行為の後ろに存在する「思考をやめた状態」のことだ。それ、自分で何かを主張しているつもりなのだろうが、果たして思考の結果なのか? 著名人が言ってるから無意識に間違いないとか思ってない? 自分でちゃんと考えてみた?
コピーは、SNSでは、リツイートや拡散、シェアのように名前を変えて正当化されてもいる。が、これもまたインターネットを薄めている。一度自分のタイムラインを振り返ってみよう。自分自身の意見はその内のどれだけだろうか。
中身のない投稿に反応するのは苦痛である。だが、反応しなければ嫌われてしまうかもしれない、と人は考えてしまう。SNS疲れに陥るのも当然だ。
実際、Facebook上の「いいね!」などは既に、愛想笑いや営業上の相づちみたいなもの、あるいは身内内だけの盛り上がりで、完全に形骸化しており、そのほとんどははまったく「よくない」。
「いいね!」と素直に受け止めているのは、もはや投稿者本人だけではないだろうか。いや、本人も気付いているだろう。ちっとも「よくない」ものに「いいね!」していること、されていること。
なんという不毛さ。
この不毛が不毛を呼ぶ惨状を見つめながら、飛び交う「いいね!」の数だけ、涙が私の頬をこぼれ落ちる。泣きながら心の「不毛だね!」ボタンを連打しても、今のところ誰にも届く気配はない。
それは便利と効率を追究したデジタル時代の、悲しき副作用。もはや、砂漠化のように止められないのかもしれない。認めざるを得ないのかもしれない。
でも。やはり。と思う。
インターネットはたくさんの人が参加した方が楽しいでしょう。知らないの村の一人暮らしのおばあちゃんがどんなツイートをするのか、とか、地球の裏側のジャングルで生活する少年はインスタでどんな写真を撮るのか、とか、見てみたいと思わない?
私は思う。それを実現させるためには、今よりも、インターネットを美しく面白く、魅力的にする「意識」が必要だ。インターネットは汚れてる。どうすれば綺麗になるのか。
(②へつづく)
本日のミュージック
本日公開。待望!×100000の、group_inou×AC部、イルカ君の生みの親コンビ新作。 あらそいはなにもうみださないよ……。
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。